「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を読みました。衝撃的な文章でした。
この文章を書いたフリーライターの赤木智弘さんは、「平和な現代」が「流動性」を欠いたものであって、「社会の格差」を「大きく、かつ揺るぎないもの」にしている時代であるととらえています。そして、その解決策として彼は、「極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する」と論を進めていきます。
そして、
「国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる『持つ者』の傲慢であると受け止められるのである。」
と語ります。
タイトルは軍国主義の日本を批判した社会学者であり東京大学卒の丸山眞男が、二等兵という軍隊では最も低い階級で徴兵され、当時の中学校も出ていない上級兵にいじめられたという戦中の話に由来したもので、赤木さんは「一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光」と彼は言います。それは、復讐とも呼べるものなのでしょう。
私たちは、この文章に対してどう答えるべきなのでしょうか。「言っていることは分かる気がするけど、何かが違う」と思うのは私だけでしょうか。
彼はこの文章の中で「窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう」と語ります。それはその通りでしょう。
しかし、私には、それを得るための手法論が間違えていると思えてなりません。つまり、その根底にある思想には「愛」という概念が決定的に欠けていることに注目したいと思うのです。「窮状を脱する」ためには、誰かからの愛される必要があるでしょうし、「社会的な地位を得る」にも、「家族を養う」にも周囲の人を愛する必要がありますが、彼の文章には、全く愛の存在が感じ取れません。「迷惑をかけも、かけられたくもない」というのが彼の意味する「尊厳」なのではないかと思えてなりませんが、それは孤立でしかありません。
尊厳とは自らが尊いと思うものを、自身の全存在をかけて護り、育て続けることであり、愛そのものだからです。家族然り、仕事然り、地位然りです。故に私たちはいかに「平和な時代」なのだと言われても愛し、愛される者として学び続けざるを得ないですし、その結果「社会の流動性」は担保され続け、私たちはその中で愛し、愛される者としての尊厳を担保されるのです。だから私たちは、経済ではなく、自分自身を成長させ続ける必要に目を逸らせないのです。
愛の中に身を置き、多くの人々と交わることは、私たちの生涯を通じて絶えず問いかけられ続ける課題なのですから。